脳汁生活。

脳汁生活

無重力アパシーなる日々。

料理で気を晴らすことは、別に食材に対して失礼に当たりません。

高齢の方から若者への定番の質問と言えば、「ちゃんと食べてる?」だ。

 

例に漏れず、私にもその質問は飛んでくる。

 

風が吹けば今にも折れそうなおばあさんに、そう言われるので、よほどひもじい雰囲気を匂わせてるのだろうか。

 

年をとるとお節介になるからだろうか?心配することが生き甲斐になるのだろうか?自分の人生を生き飽きたのか?その若者に自らが育ててきた子どもの姿を、親としての姿を重ねるからだろうか?

 

とにかくおばあさんたちは若者が「よく食べてるか」に関心があるらしい。

 

そして若者が「コンビニで済ますことが多くて…」なんて言うものなら、ちゃんと食べなきゃだめよ!今度煮物作って持っててあげようか?!」と、煮物ババアに変身する。

 

しかし残念なことに、大方の予想を裏切って、私は、自炊をする。

 

自炊と言っても、吉野家に毛が生えたようなものではなく、自分で言うのもあれだが、わりとちゃんと作る。

 

基本的に食べたいものを作るのだが、和洋中何でもござれである。肉じゃがも、ハンバーグもミートソースも、麻婆豆腐も回鍋肉も作る。

 

今の時代、ネットを開けばレシピがあるので、作れないものはない。

 

しかし残念なことに、大方の予想を裏切って、その料理を作るのは基本的にパンツ一丁で、葉加瀬太郎のような髪の毛を乗せた22歳の男であって、決して、若いというだけでカッコいいと決めつけてはいけない。

 

となると、次に飛んでくる質問は決まってこうだ。「なんで自炊するの?」

 

答えは割とシンプルで、節約のため。一人暮らしの自炊は高く付くとか言うけど、そんなことはない。多めに作っても、次の日のお弁当になるし、冷凍保存だってできる。280円あれば、吉野家の牛丼を3杯は食べれる。

 

もちろん残念なことに、お弁当男子といっても、その実態はパンツ一丁の葉加瀬太郎である。

 

だが、私が自炊をするのはもう一つの理由がある。それは、癒やしである。

 

いよいよおかしくなったかと笑われそうだが、そんなことはない。情熱大陸のやり過ぎで頭を冷やすべきでは?という忠告も不要だ。

 

料理は言うなれば、私にとっての瞑想に近いものがある。

 

瞑想と言うと急に宗教チックで怪しいのだが、ちょっと待ってほしい。簡単に言えば、頭を空にするということなのだ。

 

私だけかもしれないが、物書きをしていると、頭のON-OFFのネジが外れることが多いような気がする。

 

カッコよく言えば、常に世界から情報をインプットしてるのだ。思考の垂れ流しである。

 

今やTwitterを開けば、気になるニュースやらイベントやら著名人のためになるTweetが流れている。暇あればSNSを開く私たちは、暇であっても脳に暇すら与えてあげないのだ。

 

現代を生きる私たちは、知らず知らずのうちに、脳に労働を課しているのである。

 

その労働はとても残酷である。脳には法定労働時間も、残業も、働き方改革も、ワーク・ライフ・バランスも過労死認定存在しない。

 

さらに脳は睡眠中も働いているというではないか。

 

こう考えてみると、脳という物体に生命の神秘を感じるとともに、いささか不気味に思えてくる。休みなく働くロボットのような物体が自然界に存在し、なおかつそれは、遠い世界の話ではなく、私達の身近にあるのだから。

 

身近どころか、頭上、頭上どころか頭にそれは降臨している。

 

しかも、なんだかルックスが気持ち悪い。うねうねという言葉では形容できないような独特の雰囲気を醸しながら、それはまさしくうねうねである。

 

その姿は魚の肝に非常に近似している。魚の肝が好みという人は、通であると評価される昨今の社会。しかしながら、誰しもの頭の中にはその魚の肝が入っているのだと。通どころの騒ぎではない。

 

 

キモ可愛いという言葉をご存知だろうか?意味を知らずとも、字面を察していただければお分かりいただけるだろう。つまり、「キモいけど可愛い」だ。

 

キモいにはどうやら中毒性があるらしく、最初は「キモォ・・・」と思ってたものにも、光る一点の輝き(可愛さ)があるとハマってしまうのである。そのキモさの深みにハマってしまえば、今度はもう、ただの可愛いでは物足りなくなるのである。可愛い以外の付加価値(キモさ)を求めるようになるのだ。普段はスタイル抜群でおしゃれでキュートなアイドルの、鼻くそをほじる姿を見て、ただならぬ何かを感じた時の心の揺れと同質のものがそこにはある。

 

例に漏れず、私も脳の形の、存在のキモさに慣れ、ハマってしまった。そんな脳みそを可愛いとすら思っている。

「形は不気味でグロテスクだけど、毎日健気に働いてくれてありがとう。お前がいなきゃ、文章も書けないし、赤信号も渡ってしまうよ」

 

話がだいぶ逸れてしまった。

 

そんなキモ可愛い脳みそを少しくらい労わってやりたいと思うのは、至って普通の感情であり、普通どころか、慈しみすらも感じられる。

 

意図的に強制的に働き続ける脳の動きを止めるために、私は料理をするのだ。厳密に言えば、料理中だって脳は使っている。だが、それでも料理をするのは楽しいし、何より料理の事だけに集中できる(じゃないと指で一品創りかねない)。

 

玉ねぎをみじん切りにする。ニンニクが焦げないように、香ばしいが部屋中を包むまで炒める。コトコト煮込んだ牛すじ肉の灰汁を丁寧に除いていく・・・

 

その一見地味な、所作の一つ一つが凝り固まった脳の思考回路のしこりをゆっくりと絞り出していく。普段は使わないような脳の部分を使っているからなのか、単純作業をすることで、思考停止を命令しているのか、そんなことは分からない。

 

新しい着想は疑問を持ち続けることで生まれる。しかし、時には「あえて考えない」ことも必要だと思っている。意味や意義は、時に大きな重りとなって、私たちにのしかかる。そんな呪縛から開放されたって、たまにはいいじゃない。

 

必ずしも料理が万人にとっての脳の癒しになるわけでもない。音楽を聞いたり、走ったり、ヨガをしたり、おしゃべりをしたり、絵を描いたりすることが癒し、つまりは思考停止という浄土への道なのかもしれない。

 

 

そんなわけで平和なオチにしようと思ったのだが、ある疑問が頭からついて離れない。

 

それは、「癒し」のためだけに使われてしまう野菜の気持ちだ。

 

 

私は茨城はつくば市の出身だったので、それなりに自然の多い場所で幼少期を過ごしていた。週末や長期の休みになれば、「自然」を伴うアクティビティやイベントに家族総出で参加したのは、今となってはいい思い出の一つとなっている。

 

「野菜」と「自然」を掛け合わせば、真っ先に思いつくのは、「芋掘り」だ。

 

芋掘りは、いわゆるレジャーではないので、海や川や山やアスレチック、BBQ、キャンプといったような、身の危険もあまりなくて、本当に小さい頃からでも慣れ親しむことのできる、美味しい・楽しい体験であろう。

 

そこら辺から落ち葉をかき集め、その場で、泥んこまみれになって掘った芋を焼くのは、やはり心躍る。しかし、幼き日の慈悲に満ち足りたその心には芋に残酷なことをしてしまったのではないという、後悔の念が浮かぶ

「お芋さん、取ってよかったのかな…」

 

芋には芋なりの人生があったはずだ。どんな一生を遂げるか知る由もないが、その地で芽生え、花を咲かせ、芋を実らせる。

 

「たっくんいっぱい取れたねぇ。お芋も美味しく食べて欲しいって言ってるよ〜」

 

なんて母が私に言った時、私は素直に喜ぶことができなかった。

 

第一にして、芋は食べられることを嬉しいと思うのだろうか?

 

朗らかな日差しの下で、「今日もミミズとお喋りするかあ」なんて思ってる時に、いきなり、ズボッと身体を引っこ抜かれるのだ。しかも芋は裸体である。それを持って、「おっきいの取れたあ!」と満面の笑みを浮かべるのだ。変態である。まだ自分にチンチンが付いているんだか、いないんだかよく分からないような幼子には、あまりにも刺激が強すぎる。

 

いきなり丸裸にされたあげく、食べられて美味しいと思えって?芋にしてみれば、人権侵害もいいところだ。

 

仮に美味しいと思ってほしいなぁと芋が感じていたとしよう。しかし、はじめて見る人間の、しかも鼻水を垂らしている自分のチンチンの分別もつかない小僧に食べられたいと思うだろうか?

 

健全な人間であるならば、 一度や二度、愛する人を愛しすぎるがゆえ、「食べてみたい」と比喩することがある。これはもちろん、実際に「食べたい」と思うわけではなく、「食べて自分のものにしたいほど好き」という意味であろう。

 

ただそれは、「好き」だからこそ成立する恋愛の比喩表現であり、見ず知らずの納豆臭い口臭のおっさんを食べたいと思ったのなら、誰が何と言おうと、あなたは変態であり、犯罪者だ。

 

ましてや、おっさんをキモ可愛いなどと言うのであれば、いよいよ物事の分別や判断基準が狂い、もはや何でもキモ可愛いのだろう。おっさんをキモ可愛いと思う女子は、ガードレールもキモ可愛いし、洗面所もキモ可愛いし、土星もキモ可愛い。

 

きっと脳が正常に作用していないのかもしれない。

 

脳を休ませてあげるために、料理を趣味に加えることをお勧めする。