脳汁生活。

脳汁生活

無重力アパシーなる日々。

人生のルート分岐に立った時

完璧主義的な気質を持ち、好奇心が旺盛な方であれば、分かってもらえるであろうが、私はロール・プレイング・ゲームが好きだ。はたまた、ビュッフェやバイキングや食べ放題も好きだし、美術展も好きだ。

 

私の性的趣向をここまでオープンにしながら、きっと完璧主義的な方も、好奇心が旺盛でない方も、そこに当てはまらない方々も、つまりは全人類が、私の言っていることを理解していないということは、何となく分かっている。

 

違うのだ。私は、この感覚を単純にシェアしたいだけなのである。さながらその行為は、女子高生や女子大生が、「オシャレなカフェに行ってきたんだよ!」ということを全世界の人間に強調し、お知らせしたいという気持ちと変わらない。つまり、私は女子高生であり、女子大生なのである。実態は、22歳の葉加瀬太郎風ヘアの座高90cmの男であったとしても。

 

全てやらないと気が済まないのである。完璧主義・好奇心旺盛と言えば聞こえはいいが、実態はただの貧乏性である。

 

ロールプレイングゲームをやれば、折角お金を払ったんだからと、「右に行きますか?」「はい」or「いいえ」的なルート分岐を見たら、その場でセーブをし、右にしばらく進んだら、左にその後も進む。全部知りたいのだ。悲しみも喜びも知ることが、そのすべての抒情を知ることが私のハッピーエンドだ。

 

食べ放題に行けば、折角お金を払ったんだからと、お腹をいっぱいにして、喉の辺りまで食べ物を詰め込むのは前提として、出来れば全種類の食べ物を制覇したい。だから、私は、女性の「少しの物を沢山食べたい」という理屈を理解できる。

 

できることなら、沢山の経験を積みたい。それが一層、人生を「素敵」に輝かせるのだろう。イイ女は少なからず、イイ経験を積んでいる。イイ食事、イイ男、イイ景色、イイ仕事。そんな沢山のイイをつまみ食いしたい。それが彼女たちの人生の思惑だ。私だって、

 

彼女たちのように「素敵」になりたい。イイものをつまみ食いどころか、いっぱい食べたい。ほら、食べ放題って素敵だ。

 

美術展に行けば、折角お金を払ったんだからと、隅の隅のホコリまでを観察する徹底ぶりである。もちろん、大半の絵画及び彫刻作品の意味は分かっておらず、そこにいる意味はもはや無いのだが、もったいなさには勝てないのだ。分かっていないのに帰ろうともしない。ここまでくると、体積が大きい分、タダで住まいを得ているゴキブリよりもたちが悪い。邪魔である。

 

今、これを読んでいるあなたは、「相当にケチ臭いやつなんだな」と私を蔑んでいるのだろう。YES。私はケチである。旅行に行っても、あっちこっち行かないと気が済まない。だからめちゃくちゃ疲れるのである。当たり前である。

 

ケチ臭いと言えば、嫌な感じがするが、こうは考えられないだろうか?この男は後悔したくないのだと。

 

折角お金を払ったんだから、時間を使ったんだから、より多くを見て、聞いて、食べて、触って、嗅ぎたいのは当然の感情だろう。

 

例えば、食べ放題で、最後にシューマイを食べるかどうか悩んだとしよう。お腹もいっぱいだし、気持ち悪くなったら嫌だと、あなたはシューマイを食べなかった。ところがどっこい、深夜1時過ぎ、なんだかご腹が空いてきた。あなたは必ずや後悔する。「やっぱりシューマイ食べときゃよかった」と。

 

しかし、シューマイは後からでも食べられる。美術展だって、興味が無いならどうせ忘れる。見たくなったらパリでもロンドンでもミラノでも行けばいい。

 

その程度、と言ってしまえば、シューマイや美術展に怒られてしまいそうだが、人生には、戻れないルート分岐が確実に存在する。

 

お金と時間があれば、いくらでも買えるし、回収できるものに、人は絶望や悲しみを抱いたりはしない。何千億とお金を積もうと、青春を讃えた放課後の教室で馬鹿騒ぎをしたり、朝日が登るまで飲んで飲んで飲んだくれた日々は帰ってこない。

 

ノスタルジアに誘うつもりはさらさらない。むしろもっと、冷たくザラザラした何かが悶々と私達の前にはある気がする。過去を羨む今すらも、羨む瞬間になるかもしれないということを忘れてーー。

 

かつて、「自分探し」という、ありがちなワークショップに参加したことがあった。内容はほぼほぼ忘れてしまったのだけども、イギリスかどっかの作家の引用がとても心に残った。

 

日々の選択が、すなわち人生の選択となる

 

人生には戻れない分岐ルートが確実に存在する。

 

青春の日々を捨て、自宅に引きこもり、インターネットの世界にのめり込めば、世界のシステムを再構築するスーパーエンジニアになれたのかもしれない。

 

でも、青春時代に社交性を養わなかったお前の友達はずっとパソコンだったね。「パソコンは裏切らない?」だって?パソコンが大好きなお前の尊敬するシリコンバレー在住の彼も結婚して子どももいる。

 

放課後のグラウンドで、早朝のグラウンドで汗と泥にまみれながら、必死にある一日のために、すべてを捧げた。

 

そんな熱く、一生懸命になれたあの時の自分に酔狂しているものの、その日々を読書や勉強、芸術、テクノロジーに当てていれば、今の自分の可能性を少し広げたのかもしれない。

 

人生はトレードオフ。才能はギフトと言うらしいが、人生の分起点に立ったとき、その贈り物に気づき、適切に使える人のことを、天才と言うのかもしれない。

 

本当は味覚に関して抜群に鋭敏で、足しと引きが感覚的に理解できるのにも関わらず、一向に目が出ない、誰の目にも入らない絵を描き続けていたり。

 

本当は味覚に関して抜群に鋭敏であるのに、自分を図り誤り、なぜか栄養士とか料理研究家とかグルメレポーターになってしまっていたり。

 

それはそれでいいんじゃないか。もちろんである。その分起点を正しくしていけばいいのだから。得意じゃない。好きじゃない。だけど、こうしたい。こうなりたい。かっこいいではないか。

 

だけど、好きだからこれでいいんだと言うのは、大抵嘘だ。正当化したいだけだ。本当は誰かに褒められたいし、認められたい。出来ればその道の大家に。トップオブトップに賞賛を浴びたい。

 

だから、誰しもがなれると思い、人生の分起点を無かったことにして、進む。分からないけど、進む。

 

出来れば、出来ることならば、自分が最も好きだと思えて、もっとも得意なものを人生をかけてやっていきたい。だが、無理である。みんな、今の手持ちのカードを使って生きていくだけである。

 

やらなかったことは、やらなかったことであり、好きも嫌いも、向きも不向きも分からない。何年やったらできるとか、何年やったら分かるとか、そんな基準は存在しない。

 

私たちは日々を捨てて生きている。恐らく、得る以上のものを捨てている。

 

今日、出社しなければ、見たかった映画を見れるかもしれない。でも上司の評判を落とすかもしれない。映画は思ったよりつまらないかもしれない。実際は面倒くさくなって、映画を見ないかもしれない。

 

だから人は目標を立てる。日々はとても曖昧で、生き方を定めなければ、生きていけないからだ。

 

しかしその目標も、立てられなかった無数の目標の上に立っているだけにすぎない。立てられなかった目標には、「ごめんな」と今の自分で誤っておく。未来の自分が目の色を変えて悔しがり、過去の自分に「またか」と愛想を尽かれるかもしれない。

 

人生の分起点に立ったとき、てか、それは紛れもない今なんだけども。何と何と何をどれくらい天秤に乗せますか?重いのがいいんですか?軽いのがいいんですか?方角はどっちを向けばいいのですか?

 

さあ、どう決めようか?!「知らねーよ、いいと思ったらいいだろ」、「リスク考えて…」どっちも好きだよ。だけどね、忘れちゃいけないのが1つ。まだ君は死んじゃいない。だから、明日に決断を託せる。

 

いつ寝るか、悩んでしまう人類はもはや病的だと思いつつ、焦りはアドレナリン的な麻薬だなと用法容量お守りください。おやすみなさい。